2011-02-14 Mon 20:25
厚塗りより水彩に惹かれる。 自分のコントロールから外れる部分の存在。 ぼくが人形の眼球にクラックガラスを使うのと同じ理由。 キリスト教的な上から吊られたロジックは、近代の到来とともに終焉を迎えた。なのに、未だArtは階層構造の上位を目指しているように思える。 なんだかすごく違和感がある。 その違和感を言葉で解すのか、作品で別の切り口を与えるのか。 言葉で語るのは近道かもしれないけれど、経験上、近道は何かを取りこぼす可能性が高い。何を除くかを意識しつつ研ぎ澄ませれば手段は言葉でも造作でも構わないが、ぼくはそこまで自分の言葉に信用を置けない。暫くは仕方なく両輪として使うけれど、言葉は口から離れた瞬間ぼくを裏切るので。 Artを階層化するのは何故か。そこをしっかり考えておかないと、揉まれ、見失う。 カテゴライズし、階層化するのは、キリスト教的論理が根底にあるから。 Artが目指すべき地平は弁別を上書きし続けること、なのか。上書きして新たなカテゴリを作ることなのか。 何か違わないか。 ぼくらは、頭の中にしか存在しない境界線で実際の物事をカテゴライズし、ヒエラルキーに組み込み、安心している。Artはそれを揺るがせにし、突き崩すのが本来の役割だ。Artを見て心が安らぐと云うのは、そのArtの価値を否定しているのと同じだ。 既存の価値観に疑問を抱かせるのが、Art。 つまりその主体は、Artではなく鑑賞者だ。 観る側がArtに触れることで世界を捉え直す、そこまで含めての全体の現象が発生しない限り、それはArtではない何物かだ。 言葉がぼくを裏切る一例。 Art、アート、美術、芸術。 さぁ、どうだ。 どれも何も語らないくせに、各個人の意識をぼんやりと縛る。発した方はそんな縛り方がしたいわけじゃないのに、言葉は勝手に個々人のバックグラウンドを引き合いに、あやふやなカテゴライズを果たす。 しかしながら誰かを何かの動きに誘ったりするには、そのすぐに背を向ける言葉たちとやり合わなければならない。なぜならば、例え幻想であっても共通の理解を得るためには、言葉が一番「てっとり早い」からだ。 取りこぼしと引き換えに、近道をするのだ。 すれ違い、むべなるかな。 そんなわけでぼくは今日も自分の生む言葉と騙し騙されしながらじたばたと取っ組み合う訳で。 めでたし、めでたくもなし。 Tweeted at Feb.14, 2011. http://twitter.com/Bishoujo# |
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