本の内容はこう、内省的な学生なんかが嵌まり込み易い『自己存在の反駁不能な不確定さ』と云うか、『我何処より来るや、我何処に在りや、我何処へ行くや』と云うか。
平たく云うと『自分って何?』と云う問い掛けですね。
はぃ、内省的な学生でした、昔。
非・社交的。
内省的で非社交的は今も大して変わんないか。
テーマは確かにそう云う普遍的なものなのですが、アプローチは実験的で。
台詞回しの面白さ、動きの激しさと一瞬の静止、すっきりした場面転換と、飽きさせるところのない舞台でした。
いやはやこれは無茶な勢いだ。
名前のないキャラクタ達の相関関係を捉える為に、半ば無意識に名前を付けてる自分に気付いてはっとしてみたり。
つい咒を掛けてしまうのは言葉を持つものの性なのかしら。
自棄捨て鉢に飛ばしまくるキャラクタ。
そこから演繹的に何かを掴み取ろうとする足掻き。
シニカルな諦め、ポジティブな諦め。
どれかしら、もしくは全てについて、多くの人が辿り着いて踏み越える道だろう。
4人のキャラクタは明日に辿り着く為に必要な通過儀礼。
そうして悩みつつも、日常は川のように流れていく。
若干の苦言を呈するならば。
序盤、医者と患者(ではないのかも知れませんが)のカウンセリングのシーン。
これは2人とも客席を向いてしかし対話しているという演出だったのですが、患者役の視線がうろうろし過ぎだと思いました。
医者が何処にいるのか、どのくらいの身長なのか、ああもあちこち見てしまってはさっぱり分かりません。
そう云う疾患を演じていたのであれば分からなくもないのですが、そんなわけでもなさそうだったし。
扉を叩くマイム、もっとびしっと止めるところで止めて欲しかった。
暖簾を叩いているような感じに見えました。
音響に関して、曲の消え方がややぶっつりとした感じでした。
もっと柔らかくフェードアウトする方が筋に合ってるかと。
敢えて挙げればその程度。
概ねは緩急の具合・発声・動きの切れのどれも心地よく、観ていてするりと入ってきました。
まぁ、Dさんがやや喉傷めてる感じではありましたが。
お大事に。
風景が広がっていくような詩的な独白の積み重ねは、舞台に水平方向の広がりを持たせていて素晴らしかったと思います。
そして最後に斜め上に伸び上がるように。
ありがたいことに招待で拝見致しましたが、自腹で観るだけの価値はあったと思います。
あと、衣装に一人できゅんきゅんしてました。
あれはgoukかな?
あんまし纏まりのない感想ですが、そんなで。