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あらみたま、にぎみたま。
2007-01-17 Wed 23:18
 
芝居の舞台が近い。
http://fengshui.blog65.fc2.com/blog-entry-45.html
内面から込み上げるもの、外からの有形無形の指摘。
考えるところが増える。


作りたいものは何か。
表現媒体は何なのか。
自分という人間を見せるだけなら人形は要らないのではないか。
なぜ人形を作るのか。
 

 
自分という人間を見せたい、ではない。
その欲求はあるが、究極的なものではない。
人形を作ることは自分にとって何なのか。
分身を作っているわけではない。
器、と自分では云っている、云い聞かせている。

よい器は器のみでも美しいが、何かの容れ物としての用を果たしたとき一層輝く。

備前が好きだ。
織部も好きだが、それはどちらかというと色のことで、肌の感触や窯の業と云うことになると、やはり備前だ。
何を入れても呑み込む。
気取らず、引かず、押さず。
素朴で重厚で荒荒しく優しい。
備前は冷えた中に、窯の焔を持つ。

人形にも、炎を持たせたい。
明明と燃えるが触れれば冷たいような。
それには先ずは技が要る。
場数が要る。

なぜ、器を作るのか。
それによって見せたいものは何か。

見せたいものは、見た者自身の内側。

その為には、語り過ぎてはいけない。
突き放してはいけない。
器に留まらせるというのは引き算だ。
機能と構造の吟味。
膨らませるばかりがよい結果を生むとは限らない、寧ろ逆なのだろう。

何かとパフォーマンスばかり先に立つ。
要するに楽しいからそうなってしまうのだが、それでは早晩立ち行かなくなる。
特に人形化の試みは既に意義を達してしまったのだから、もはや繰り返す要はない。
場を作り出してはいたが、デザインフェスタでの2度の展示は省みれば人形の為の場ではなく、自分の為の場としてしまっていたように思う。
そうではないのだ。
人形を、まだ場を作り出すに至っていない自分の人形たちを下支えする場でなくては。

次回のデザフェスには、上海乗風界水中心としては参加しない。
位置付けは技術支援。
他人のパフォーマンスの下支えに入る、という挑戦。
表に出ないことに対する挑戦。
ついつい目立とうとしてしまう悪い癖を、状況に応じて抑え込む。


自分が表に出て行く表現活動と、人形に任せる表現活動を、綯い交ぜにしてしまうのは拙い。
一度自分から人形を切り離してみないことには先に進むことはできない。
器に中身を盛って渡すのではなく、器のみを差し出すのを念頭に。
先ずは分離がきちんとできてから、それから盛り付けよう。

自分が出て行く表現活動も、何かしら続けていきたくは思う。
楽しみの一つだ。
ただ、何かしら受け取り手の心が揺らがないとやっていく意味はない。
日本人は古来、善きにつけ、悪しきにつけ、甚だしいことを神として奉った。
ベクトルは時代や環境で変わるが、スカラーはただそこにある。
理想としては今の環境での善を求めるけれど、マイナス方向に揺らがせるのだってそれはそれで意味のあることだ。
更に望んでしまうなら、一霊四魂の域にまで。
見る者の内面によって現れる姿が違う、そんな表現を。


何かにつけ意味を求めてしまうのは、善いことだろうか悪いことだろうか。
どちらにせよ、甚だしければ本望というものだ。

その善し悪しは見る者に任せるべきなのだろう。
 
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